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メルマガ #34
ーさん、こんばんはimoです。
ではでは、メルマガ#34をお送り致します。
まずはいつも通り、前回の質問への返信から。
Iさん
imo様
先日読んだ落合陽一氏の本にも、楽しいことを仕事にすることでストレスから解放された理想に近い生活ができる(ワークアズライフ)
的なことが書いてありました。
自分の場合は、楽しめてそれが稼ぎになるものを探さないとですが。。。
さて、今回の質問に対する回答を。
今年は年始から交通事故の被害にあったり、市況が良くなかったりとあまり良い感じではないのですが、
今月、結婚して2年経ったことが幸せに感じました。
お互い、あまり異性と交際する機会が無かったり、全然長続きしなかったので、結婚して2年(交際開始からは10年)経っても未だに仲が良い関係を継続できているのは、ちょっとした奇跡なんじゃないかと思い始めています。
10年後も、一緒に飯食って風呂入って寝る生活が続いていると良いのですが、子供ができるとまた変わるもんですかね?
以上です。ではまた。
Tさん
imoさん、こんにちは。
初めての返信なのでちょっと緊張しています。
読み難かったらすみません。
非常に楽しいメルマガを読ませていただいているうちに、自分も少しでもアウトプット力を鍛えたいと考えるようになりました。
そう思わせてもらえただけでも大変ありがたいです。
今後もよろしくお願いします。
さっそくですが、質問に回答します。
「ここ最近で、あなたが最も幸せを感じた出来事は何でしょうか?」
imoさんとほぼ同じですが、1歳の息子がおりまして、その息子が一生懸命歩いたり何かを喋ったりしながら日々成長していく姿を眺めている時に幸せを感じました。
息子が幸せになれるようにサポートできる父親でありたいなあと考えたり、関わり過ぎてかえって悪影響を及ぼしたら嫌だなあなどと勝手に考えたりしています。
献身的な妻にも支えられ、今のところ家族3人で楽しく生活できていることも幸せです。
以上です。
短文ですみません。
徐々にでもアウトプット力を鍛えていきます。
Mさん
imoさんおはようございます。
意志力については本当にそう思います。
最近慣れない仕事を無理やり完了しようと判断力をフル回転させてやっていたらあっという間にガス欠になりました。
慣れない上にやりたくない事を、力いっぱいやらないといけない状態はかなり危険ですね^^;
では、今回の質問
「ここ最近で、あなたが最も幸せを感じた出来事は何でしょうか?」
私は、先日息子がニッコニコで朝起こしにきた時です。2日前から「お父さんナーイー!」と拒否全開でもうやってくれ
ませんが、嬉しかったですね。
仕事の疲れが抜けたら新しいことをやる気が出てきたことでしょうか?
一時期疲労困憊で何もやる気が起きなかったので、今の気分はその頃に比べるとハツラツとしています。
投資が趣味なのですが、投資に対する意欲が戻ってきたのもの嬉しいですね。
今回のものは多分相対的に感じた幸せだと思うので、
さらに幸せを感じられるようにやりたいことに対して主体的に動いて楽しんでいきたいです。
Jさん
imoさま
いつもありがとうございます。
意志力・習慣化の話はいつもながら参考になります。
しばらく前に始めた週に2回ほどの筋トレを継続できているのは、実際に体が引き締まってきた実感があることが大きいです。少しずつでも成果が出て前に進んでいる実感があると続きますね。おかげで筋肉痛が収まってきたらそろそろ筋トレやるか!という良い習慣になってきました。
「ここ最近で、あなたが最も幸せを感じた出来事は何でしょうか?」
→子供たちとはしゃいで大笑いしたときですかね。子供に限らず、人と話してて盛り上がって笑ってるときは楽しくて幸せを感じますね。これは一人だけではできないことなのでもっとそういう時間を増やしていきたいです。
Hさん
imoさんこんにちは。
今回はようやく「テンションを維持する方法みないな・・・
」の内容が書かれていて、やっと読めたぜ!と言う感じでした。とても興味深く読ませてもらいました。「ここ最近で、あなたが最も幸せを感じた出来事は何でしょうか?」の質問に対してですが、家族、親戚の仲が良いことを実感した時です。
妻は兄弟が多くその中でも妻を含む三姉妹とその夫同士皆仲良く、よく集まります。それ以外にも私が義理の父とよく二人で飲みに行ったり、私の両親と妻の両親4人だけで海外旅行へ行くこともあります。
先日同僚から親戚間のトラブルを相談された際に、その話をしたところ、とても驚かれ凄く幸せなんだね。と言われ、確かにそれも幸せってものなのだなと気付きました。
幸せはお金で買えないとは言いますが、このような事を言うのだと思った出来事でした。
ここまで。
いつもより若干返信は少なめでした。
このメルマガの読者は幸せではないのかな・・・笑
何人かの人が実感した通り、「幸せ」というのは何かとのギャップに生まれます。
基準になるモノ次第ですね。
基準になるモノが高いと幸せを感じるハードルも高くなる。
今回はそんな話から
「幸せ」について
少し、「幸せ」についてお話ししておこうと思います。
結論から言えば、そもそもの人間の価値認識の癖を理解しておきましょう。人間は、ギャップに反応する生き物です。というお話し。
これを別の言い方をすると、「人間は慣れる生き物である」ということにもなります。
欲望に限界はない。
幸せにも際限がない。
上を見ればキリがない。
資本主義を支える特性でもあります。
人間はギャップに反応する。
お金の話で言えば、資産100万円の人が一億円になればいわゆる「オクリビト」であり、人生上がりみたいな感覚になるかもしれません。
しかし、資産1000億持っている人が資産1億まで減らせばこの世の終わりという感覚になります。
実際、どこかの有名ファンドマネージャーは資産を100分の1にして自殺したという話があります。その時彼が持っていた資産は数十億円・・・
人間は、現状からの変化率に反応する。
これは間違いのない特性です。
「足るを知る」
という禅の言葉がありますね。これは「欲望を追い求めすぎるな」という訓戒としてだったり、権力者や成功者への戒めのとして話されることが多いですが、そもそも人間は変化率に反応する生き物なのでいつまでも足るを知ることはないという警告にも聞こえます。つまり、欲望を追い求めた結果は結局は虚しいものだという意味にもなります。
で、「幸せ」について。
まさに虎舞竜のロードなのですよ。
「なんでもないようなことが幸せだったと思う」
と多くの人が人生の最後に思うことのようです。
変化率をただひたすら追うことを最大の目的にしてはいけないと。
ただ、ガチ草食系のように、「なんの欲もありませんただ植物のように生きたいです僕」というのも問題だと思います。笑
結局のところ、「足るを知る」ことを意識しつつ、欲望を追い求めた先は虚しいものだと自覚しつつ、好きに楽しく生きることが一番だと私は考えています。
日々の何でもないことの貴重さを丁寧に味わいつつ、より快適で楽しいことも追う。
人それぞれこれはバランスがあることでしょう。
一番危険なのは、このような人間の認識特性を知らずただ欲望を追い求めることです。そういう人は結局、行き着いた先で虚しさから絶望するか、例に出したファンドマネージャーのように途中での大きなギャップでショック死する運命にあります。
承認欲求が暴走する時代
さて、今回のテーマです。
以前、youtuberやプロブロガーのことをディスった記事でも書きましたが、今の時代知らず知らずに「承認欲求」が暴走してしまうのをよく見ます。
この「承認欲求の暴走」は結構危ないぞと最近特に感じており、今回はこの「承認欲求」について書いていこうと思います。
究極の自分勝手と成功者と承認欲求
先日、プロ下山家の栗城氏がエベレストで亡くなったというニュースが流れました。
もしかしたらメルマガ読者の中に下山家という表現を不愉快に感じる人がいるかもしれませんが、私は揶揄する目的でこの表現を使っているわけではなく、彼の活動実態を見るとこういう肩書きがしっくりくるという理由によります。
詳しくはこちらの記事を読んでみて下さい。私が知る限り栗城氏のことを最も客観的に評価している記事です。
栗城氏について良く知らない人はググってもらいたいのですが、簡単に私の視点で説明すると登山をネタにしたyoutuberのハシリの人です。
私が見る分にはどうしても彼はパフォーマーに見えてしまう。真剣に登山に向き合っていた人とは思えない。
また、後述しますが彼のファンと呼ばれる人が言うように「挑戦」や「冒険」をしているとも評価できない人です。
世間では亡くなった人を悪く言うことを無条件に非難する風潮にあり、生前の行い関係なく無理矢理にでも美談に持って行くというような個人的には気持ち悪い状況にありますので少し書きづらいのですが、後学のためと戒めのために今回は彼をサンプルに書いていきます。(決して非難のみするわけではありません。ただ彼の実態とその本質に関して考えてみるとこのメルマガのテーマにも沿っていて興味深い例だなぁということで)
究極の自分勝手と成功者
先ほどの記事の一方で、栗城氏に関して大学時代の様子を綴った話もあります。
これだけ見れば「愛すべき馬鹿」とも言えそうですね 笑
たまにいる奇行の目立つエネルギッシュな楽しい人です。
ここから分かるのは、栗城氏はナチュラルに変わった人物で人の意表を付く物凄いエネルギーと行動力を持っていると言うこと。
このような人はある意味では非常に魅力的な人物と映ることでしょう。
いわゆるカリスマ性を持っているような印象を受けます。(熱狂的なファンや企業のスポンサーが付いていることの説明にもなるかもしれません)
自分勝手を追求すると応援者が現れる
非常に説明が難しいのですが、実は自分勝手を極めると応援者が現れる・・という現象があります。
一般的には
「誰かのために」
「世の中のために」
というようなモチベーションが賞賛されますし、推奨されます。私もこれまでこの視点で話をしてきました。
しかし一方で、「自分のため」「自分の希望や楽しみを自分勝手に追及すること」によって応援者が現れる場合があるのです。
無理矢理説明すると、自分のやりたいことを追及しているので、その人は活動的ですし、精神的にも満足度が高い人になります。他人には出来ないレベルで自分勝手を追及すること自体に人は魅力を感じ、それは憧れに転化する。
自分がやりたくても出来ない人生を歩んでいる人を応援したくなる感覚とでも言いますかそんな感じ。
これは、私が知る限り生半可な自分勝手ぶりでは辿り着けません。
例えば、「自由に生きたいから嫁子供を置いて海外で暮らす」とか「息苦しい社会にうんざりして何の当てもなく南の島に移住する」とか「バス停まで遠いから自分ちの前にバス停を作る」とか
いわゆる「常識的に、人間的にどうなの?」というレベルの自分勝手さ。
「自分が不快だから周囲を変えさせて自分に合わせる!」くらいのバイタリティと空気の読まなさとかが必要。
イメージとしては、こち亀の両さんですね 笑
これくらい自分の欲望に忠実でなければいけない。正直、普通の人には無理だと思います。
このような人のもう一つ大きな特徴として、「サンクコストを完全に無視できる」という特徴もあります。
上の例で出したように、現状に縛られない、しがらみがあるなら冷徹に切り落とせる、それが例え家族や大事な友人でも自分が創業した会社でもです。
自分の行動を縛るサンクコストであると判断したならバッサリ切り離せるような人。投資でも成功しそうですね 笑
このような人には熱狂的な応援者がつくことがある。
世界的な企業の経営者も一定数はこのような自分勝手追及型でしょう。別の言い方をすればサイコパスと評価されるかもしれません。
話を戻しますが、栗城氏はある程度この傾向があったように思います。
承認欲求の罠
一方で、私が見る限りの栗城氏の失敗部分。
それは過剰な承認欲求とそれに伴う自己欺瞞の罠にハマったところ。
彼は、まさに山を相手にネット上の視聴者を観客にプロレスをしていたように思います。
毎回、ギリギリまで頑張っている姿を見せて絶対に危険地帯までは踏み込まない。そして、視聴者の注目が集まる最高潮のところで撤退!という様式美
彼はこれを繰り返していた。
その目的は彼の活動に対するカンパやスポンサーを集めるためのパフォーマンスであり、具体的には「お金」と「承認欲求」のためだったと私は考えています。
メディアが報じたり、彼のファンが言うような「冒険」や「挑戦」をテーマにする生き方、自らのロマンを追い求めていたとはどうしても思えない。
前回のイチローの話のように目の前の具体的なステップを踏みながら、ロマンを追い求めていたようには思えない。「無謀なチャレンジ」と「挑戦」は違うのです。
「必ず生きて帰る」
彼はよくこの言葉を口にしていたそうです。
ロクに訓練もせず長年の成長の跡も見えない、準備も中途半端。そんな中、最難関とも言われるルートに無謀なチャレンジを繰り返す栗城氏・・・そんな彼にとって偽りなく本音として「必ず生きて帰る」が絶対厳守すべき唯一のルールだったと思います。
本心ではエベレスト登頂なんてどうでもよかったでしょうし、自分でも実現可能だとは思っていなかったはず。(それすらも分かっていなかったとしたらヤバイと色々な人が指摘しています)
今回の事故はこの「山youtuberプロレス」における様式美の綻びだったのかもしれません。決して死ぬつもりはなかった。今回もいつも通り彼は下山宣言をしていましたし・・・
では、どこに綻びがあったのか?
私は、「承認欲求」→「ファンの賞賛」→「自己欺瞞」→「承認欲求」というループに彼は陥り、自ら作り上げたバベルの塔を登り続け、その塔を形作るファンやスポンサーからの諸々のプレッシャーによって絶対に超えてはならないギリギリの線を見誤った。と考えています。
彼の「山youtuber」としての様式美はここ数年不安定だった。(毎年同じような展開の下山ではファンもやスポンサーも離れかねません)それを見て取って、一部の人は「このままでは彼は山で死ぬ」という警告を出していました。
問題は、元々山で死ぬ気のない人がそんな不安定で危険なパフォーマンスを毎年続けざるを得ない状況に陥っていたことです。
SNSと承認欲求
近年、SNSの発達によって個人の承認欲求は加速しています。
承認欲求と密接に絡む評価経済について以前書いた”メルマガ#23”で私は以下のことを指摘しました。
彼らが外部評価を気にするあまり、逆に「自分らしさ」を喪失し、非常識なことをすること、常識を否定することで注目を集めるだけの子供っぽい人間にすぎないことに気づいてない。
「自分らしく生きて行く!」という1の評価経済に染まると皮肉なことに自分のことを考える時間は無くなり、「どうやったらウケるか?」「どうやったら注目されるか?」という外部からの評価のことばかり考え始めます。
元々は、エネルギッシュな愛すべき自分勝手モンスター(上記の通りカリスマ系の好意的な意味)であったと思われる栗城氏は、この罠にハマったのでしょう。
彼は、生前物事に詳しい人や彼の実態について否定的な人からのツッコミはほぼ無視。実際に面談した人もファンタジーに生きているようで話が通じないと感じていたそうです。
生来人よりも強固であったであろう彼の「自己」も、作り上げた外部評価を維持しようとドンドン偽っていった(自己欺瞞)。
元々は破天荒なこと、人と違う自分の欲求のままに行動することが彼の魅力だったと考えられますが、いつからか彼も自己の内部より外部、承認欲求中心の普通の人間になってしまって、山youtuberとしてのプロレスを続けることでしか、金を集められないし、生きていけない。諸々のサンクコストを切れなくなった人のように思います。
そして、諸々のサンクコストが積み重なってがんじがらめになった結果、心理的に身動きが取れない栗城氏はギリギリの線を見誤った。
栗城さんに聞きたいこと
「承認欲求」は、誰しもが持っている感情です。
私たちはこの感情と今後よりうまく付き合っていかなければいけないでしょう。
「いいね」が欲しい、「コメント」が欲しい、「PVが欲しい」、個人が容易に発信し容易にリアクションできる現代は、多くの人が承認欲求の飢餓状態にあります。
そして、それがお金に変わったり、意図しない賞賛や熱狂や応援を巻き起こせば人はそこに乗って栗城氏と同じ自らのバベルの塔を立ててしまうかもしれません。
どこかでそれらを断ち切る、または始めから客観性を持ち「承認欲求」と適度に付き合う。
方策はなんでも良いですが、危険性を自覚した上で「承認欲求」との付き合い方をそれぞれが考える必要があると思います
最後に断っておきますが、私は常に彼をチェックしていたわけではないですし、直接彼を知っているわけではないので、今回書いたことの本当のところはわかりません。
栗城氏のことは、2000年代のはじめ頃にテレビで見たのが最初です。はじめから行動と言動に違和感を持っていて、少し詳しく調べたところ登山関係者が彼をこき下ろしている記事を読みました。
その後、他の記事や彼の発言も読んで「あーやはりちょっと変わった人なのだな」という感想で、その後は興味を喪失。
そして、今回亡くなったということで、改めて興味を持ってこれまでの彼の活動を色々調べた結果、思ったことはやはり「変わっている、よく分からない不思議な人」でした。
一方で、彼に心酔してるような人も一部いたり、複数の有名企業や有名人が応援やスポンサーとしてサポートしていることを鑑みるに、それなりに魅力のあった人物なのは間違い無く、この点も合わせて興味をかき立てられメルマガで書こうと思ったという経緯です。
ということで、
今回書いた内容は彼のそれぞれの行動や言動とこれまでの彼の物語の全体像を出来る限り矛盾なく繋ぐとどういう人物像が現れるか?という思考実験部分が大半を占めます。(ただ、かなりの部分当たっているのでは?という自負はありますが)
最後に、私が彼に唯一問いたいことは、「山が本当に好きだったのか?」ということ。それだけを私は知りたいと思っています。
今回はここまで。
「承認欲求」の問題は、現代病に近いかもしれませんね。
私の友人もSNSに頻繁に投稿していて、私が見るにそこでのキャラと実際の友人は全く違うように見えることも多々有ります。
仕事上の知り合いもfacebookではとても意識高い系の投稿を連発し、誰かと食事に行けば必ず2ショットで何かに感謝しております。笑
妻の友人もインスタやfacebookでキラキラ投稿をしていますが、現実世界では問題を抱えているという話も聞きます。
そういえば、以前「結婚をする前にチェックした7つのこと」みたいな記事を書きましたが、そこでチェックしたのもパートナーに過剰な承認欲求がないか?でした。
おかげさまで、うちの妻は元々SNSとは距離を置いており、理由を聞くと「よくやるよねー。面倒臭い」とのこと
しかしながら、今の時代全くSNSをやらないのもどうでしょうか?
私自身ブログやツイッター、facebookもアカウントを持っており、発信をして何かしらの活動をしているところ。そして、このメルマガ読者にも何か発信していきましょうと伝えてもいますので、それらも踏まえて何事も適度に付き合っていくということを意識していきましょう。結局はバランスです。
気軽に個人が発信できるということは、それだけ手軽に個人が何か価値を生み出し、必要な人に伝えることができるとも言えますので。