大衆から貴族になろう!(アンパンマン的に生きる為に)
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こんにちは、imoekatです。

本日は、90年近く前の本の紹介。

 

 

「大衆の反逆」は、現代人全員が読むべきだと思いますね。

一般的には非常識ですが、深い思索、洞察をする哲学者、科学者、はしばしば驚くほど正確に未来を予測しています。「大衆の反逆」の著者であるオルテガもその一人でしょう

この本に書いてある「大衆」はまさに現代人のことで、私は初めて読んだ時90年近く前にこれだけ鋭い指摘をしていることに驚きました。

 

Contents

大衆とは?

この本で言及されている「大衆」は一般的な意味の「大衆」とは違います。

つまり、「平均人」という量的な意味での「大衆」ではなく質的な意味での「大衆」について書いているのです。

 

質的な意味での「大衆」

大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見出すことなく、自分を「すべての人」と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに喜びを感じるすべての人々のことである。

オルテガは、このように「大衆」を定義しています。

「自分に価値を感じず他人と同じであることで満足している人」=「大衆」。つまり、客観的な量ではなくその人の自分に対する主観からの定義なのです

このような人〔質的な大衆〕が世の中大多数であることの結果として〔量的な大衆〕になっていると観察されます

更に

人間には最も根本的に分類すると、次の二種類に分けられることが明らかだからである。すなわち一方は、自分に多くのことを課して困難や義務を負う人々であり、他方は、自分になんら特別なことを課すことなく、生きるということがすでにある自己を絶えず保持することで、自己完成の努力をせずに風のまにまに浮ぶブイのように暮らす人々である。

この様に断じており、「大衆」とは自分に何も課さない人びとでただ生きている人であると現代人(私を含む)に耳の痛い指摘をしております。

うーん、これは厳しいですね。ただ生活の為に生きている大衆は「自分に何かを課しているか?」と質問されて直ぐに答えられる人は中々いないでしょう。

 

 

大衆の実害

では、「大衆」でいることの何が悪いか?

ここでも中々厳しい指摘がされています。

もしも、大衆を構成している個人個人が、自分には特別な才能があるのだと信じているとしても、それは個人的な錯覚の一例にすぎず、社会的な秩序紊乱とはならないだろう。現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。

 

大衆人間は自分達の生存の容易さ、豊かさ、無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう

 

根本的に「大衆」は自分が正しいと思っており自分がオルテガの言うところの「大衆」であることに気付いてません。そのくせ厚顔無恥な要求、主張を通そうとしその為の義務や恩を忘れます。

端的に言えば無責任なのです。(世間にも自分にも・・

そして、物質的に豊かであり生存に不安がない現代の「大衆」は、歴史的にその豊かさや安全を構築する為にした先人の努力や犠牲を一切考慮せず、恩にも感じないという特徴を持ちます。

豊かさや安全は当たり前であり、自分は何でも出来る!と思っているので自己中で傲慢。そのくせ現在に満足しきって自分の可能性を追求しない矛盾を抱えているのが大衆なのです。

 

「大衆」は「討論」を無益なかけひきや言いくるめあいにしあげ、「問答」を無用と感じさせ、大掛かりな直接行動(暴力)を教唆する指導者たちと、それに信従する「大衆」人間が大きく幅を利かせ、客観的論理形式や規範体系を守りつつ、相互に説得力を行使しあい、真偽、是非、善悪を判定しあうフェアプレーのルールで討論を進行させるライフスタイルは、学会や国会はもちろん、日常会話の世界からさえ消滅しつつある

心当たりのある光景が浮びませんか?

今の世の中でとても頻繁に見られる光景だと私は思います。

「大衆」が幅を利かせる社会は、子供の無責任な我儘に付き合わされる親のイメージです。

親のありがたみ、指摘を無視し、恩を忘れ、気に入らなければ暴力に訴える・・端的にはこれが「大衆」の実害です。

 

貴族になろう

オルテガは、「大衆」に対する存在として「貴族」を挙げています。

「貴族」とは現代の一般的イメージであろう成金的な軽薄さ、派手さ、常識の無さではなく、「貴族」たる地位を維持するという心構えを有する人のこと

つまり、「自分に対し最大限のことを課す人間」=「貴族」である、とこの本では定義しているのです。

ここでも視点は主観にあります。人は自分の考え方次第で「大衆」にも「貴族」にもなれるということですね

ちょっと長いですが引用します。

つまりすぐれた人間とは、自分自身に多くを課す者のことであり、凡俗な人間とは、自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、自分自身に陶酔している者であると。一般に考えられているのとは反対に、本質的に奉仕に生きている者は選ばれた被造物であって、大衆ではない。すぐれた人間は、自分の生を何か超越的なものに奉仕させないと生きた気がしないのだ。したがって彼は、奉仕しなければならないことを圧迫だとは考えない。たまたま奉仕する対象が欠けると不安を感じ、自分を押さえつける、より困難で、より求めることの多い新しい規範を発明する。これが規範からなる生、つまり高貴な生である。高貴さの本質を示すものは、自己に課す多くの要求や義務であって、権利ではない。まさに、貴族には責任がある Noblesse oblige のだ。

中略

貴族の特権は、本来は譲渡つまり恩恵によって与えられたのではなく、戦いとったものである。だから、特権の維持は原則として、特権を有する者には必要なら、つまり誰かが特権を奪おうとすれば、いかなるときでも再びそれを戦いとる能力があることを前提としている

「貴族=努力の人」。

生とはすべて自己実現のための戦いであり努力なのです。

私は、すべて人間は最終的に自己実現を欲すると考えていますので、オルテガの言う「貴族」でありたい。

しかし、世の中の8割以上の人は「大衆」でしょう

でもこの本を読んで、自分が「大衆」寄りであることに気付くことは大きな違いだと思います。大衆か?貴族か?は主観的問題なので気付ければ一歩進めているはず

投資でも「アーリーリタイヤしたい」とよく聞きますが、気持ちの上で「大衆」のままたまたま大金を手にしてアーリーリタイヤしてもそれは単なる成金的な俗物でしょう。恐らくそのうち凋落していくと思います。

お金はただの手段であり、その上で何か超越的なモノに奉仕する気持ちを持ち、継続して自分に最大限を課す人間が本当の貴族になれるのだと思います。

 

では、最後にアンパンマンの歌で締めたいと思います。

『アンパンマンのマーチ』

作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

 

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